今朝のハウスは少しだけ様子が違っていた。
「みんな〜!朝だよ起きて」
早朝6時に響く鐘の音と共に、寝起きの子どもたちに声をかける。その役割は、このハウスの年長者であるレイ、ノーマン、エマの仕事だ。
朝食の時間に誰も遅れることがないよう、弟妹たちの朝支度を手助けするのが常である。
手際よくひと通りの仕事を終えたノーマンは、他も手伝おうと隣の部屋──レイのいる部屋に向かった。大きく開かれている扉から部屋の中を覗くと、ドンが弟妹たちにもみくちゃにされながら朝支度に奮闘している姿が見えた。そこにレイはいない。
(…ああ、そっか。レイ、明日は朝食当番の日だって言ってたな。)
寝起きの明瞭でない頭で、ノーマンは昨晩レイと交わした会話をぼんやりと思い出した。
どうやら言葉通り一足先に食堂に向かったらしい。
──なら今日は大変だろうな。
自分の部屋の子どもたちは比較的温厚で、聞き分けも良いからさして苦労はしないけれど、エマとレイの部屋は別だ。エマの部屋は僕らの部屋より子どもの数が多いから単純に母数がある点、そしてレイの部屋は…うん。とにかく元気な子が多い。レイが少し怖い顔をしないと聞き分けてくれない…なんというか我の強い子が多いのだ。
もみくちゃにされているドンを救出するべく、ノーマンはまだ少し朝ボケた気怠い身体を引きずりながら部屋に入った。ぐずる子にはなんて言って諭そうかな…なんて考えながら。
──しかし、その日はいつもと違った。
「起きてるよ」
普段なら必ずと言っていいほど、誰か一人は布団にしがみついてぐずる弟妹がいるものだが、今朝はそれを行う者はいなかった。寧ろ身支度まで終えているではないか。やれ靴が無いシャツのボタンが付けられないと朝から飛び交う声もなく、起きがけの慌ただしさの中応対する自分を想像していたノーマンは肩透かしを食らった。
「驚いた、みんな早いね」
「だって今日はね…」「うん、今日はなぁ」
口々に呟く弟妹たちは皆一様にそわそわとあたりを見回し、「ノーマンもはやく」とむしろこちらの用意を急かすばかりだった。
「しかたないなぁ」
最後に手元のベットシーツを整える。その後はやくはやくと自分の背を押す子どもたちの力に身を任せて部屋を出た。
彼らがこうまで気が急ぐ原因に、一つ心当たりがあったのだ。
先日からハウス内で飛び交う噂がある。
「食料庫に果物があった…!」
その日の当番であったナットがどうやら第一発見者となったようで、その情報は瞬く間にハウス中に伝播し、子どもたちの好奇心に激震を与えた。
「え、缶詰じゃなくて?」
「生だよ!!!!ナマ!!!!初めて見たよ本物のフルーツ」
「本で見た通りの形してたよ!」
「なんの果物だったの?」
「それはねぇ…」
このハウスでは基本的に子どもたち自らが食事の用意をする。最年長が12歳であるのでその半数が2桁も行かない子どもではあるが、大抵の食料は出来合いのレトルトであるので刃物を扱うことはない。食料を温めるために張った湯の熱さにさえ気をつければ、毎日のルーティンとしてこなすことに特別苦は感じないほどである。
今は10月の頭だ。もうすぐコニーが里親の元へ行くので、それに合わせたのだろうか…。騒ぐ弟たちを尻目にノーマンは適当な検討をつけていた。
「缶詰とちがって生はそう持たないから、明日にはデザートで出るのかもしれないよ…!」
滅多にないハウスでのデザート。そしてその中でもまた稀な生の果物ときた。年端もいかない子どもたちの瞳は、目新しさと期待で爛々と輝いていた。
結論、その期待は見事に的中していた。
「廊下は走らないで」
己の静止をよそに駆け足で食堂に赴く弟妹たちに、くすりと少し笑ってしまった。
暖かいベッドに美味しい食事、生活は十分に満ち足りて幸せであることに間違いはないが、ゼロよりイチ、イチよりニだ。日々の幸福は多いに越したことはないだろう。
先頭陣が勢い余って扉を大きく開いたようで、壁にぶつかる盛大な音が食堂中に響き渡った。一足先に朝食の準備をしていたレイが、鬼の形相で主犯であるラニとトーマの捕獲にかかっている。
食堂に入ると、すでにスープの温めは開始されており、ほのかに酸味のきいた香りがやってきたノーマンの鼻腔を刺激した。
今日はどうやらミネストローネのようだ。
スープに意識が向く自分とは違い、皆の視線を集めるのはやはり例の果物で…
「わぁ!りんごだ!!美味しそうだね!」
「え、ま」
不意に響いた背後からの声音に少しばかり反応が遅れた。振り返ると特徴的な橙色の髪が真っ先に目に入った。
向こうはこちらの動揺に気づいた様子もなく、「おはよう」といつもの調子で挨拶を交わしてくるので、これ幸いとばかりにノーマンは居ずまいを正す。
「おはようエマ。そうだね、すごく美味しそうだ」
「あとこれ!!形!!みて!ちゃんとウサギになってるの!!!すごくない!?ママが切ってくれたのかな」
ほぉ〜っと感嘆のため息をつきながら、りんごを見つめるエマ。その視線は弟妹たちと同様の輝きを放っていた。
噂が出回ったころから心待ちにしていたことがありありと想像ができて、自然と口角が緩んでしまう。
「いや、俺だよ」
エマの疑問に返答したのはレイだった。弟たちの説教も、あらかた食事の準備も終えたようで、たくし上げたシャツの裾を戻しながらぶっきらぼうに続けた。
「…来週でコニー、出て行くだろ。だからな」
レイの視線を追うと嬉しそうにウサギ型のりんごを眺めているコニーがいた。その腕にはママお手製のリトルバーニーがしっかりと抱えられている。レイの視線に気づいたコニーはこちらに向かって大きく手を振る。
「レイが作ってくれたの?ありがとう!」
花が咲いたような笑み、とはこういうことを言うのだろう。コニーの笑顔はまさにそれであった。
レイはひらりと右手を上げ「おう」と口にしたきり自席に腰を下ろした。
口角は上がっている、がそれだけだ。表情は殆ど前髪で隠され窺うことができなかったが、隙間からのぞく眉がほんの少しだけ下がっていることに、横目でチラリとみたノーマンだけは気がついていた。
なにはともあれ、活気がいつも以上に異なる朝食だった。
「おいしかった〜ごちそうさま!」
「食べるの早いねエマ」
「お腹すいちゃって」
へへ…と照れ臭そうに笑うエマに、ノーマンはそう言えば、とまだ残る自分の皿に目をやった。
「エマ、よければ食べる?りんご」
手は付けていないから。そう表すように、自分の配膳から少し皿をずらしてみる。
「ノーマンはいいの?これ…滅多にでないのに」
「ぼくはいいかな。いつものご飯で十分」
じゃあ…そう言い手を伸ばしかけたエマであったが、「あ」と呟き何を思ったかその手を引っ込めた。
「だめ、やっぱりノーマンが食べて」
突然真剣な表情でこちらを見据えてくるものだから、ノーマンは少し面を食らった。
「どうしたのエマ?遠慮しなくていいんだよ」
「ノーマンもしかしてりんご苦手?食べたくないの?」
「そういう訳ではないけど…」
質問を質問で返されてしまい言葉に詰まる。さて、どうしたものか。
実のところノーマンは、エマや弟妹たちの様に生の果物にそれほど興味をそそられることがなかった。
確かに物珍しくはあるがそれだけだ。そんな自分が口に運ぶより、食べて嬉しい人がこれらを食べる方がよっぽど建設的な気さえしていた。たくさん食べたい子どもたちは大勢いるだろう。そのため元から、ノーマンは誰かにデザートは譲るつもりでいたのだ。
だが、その「誰か」にエマを選んだ理由は、彼女の喜ぶ顔が見たいから、のひと言に尽きる。
実際好奇心と共にデザートを口に運ぶエマの笑顔はノーマンの内心を暖かくした。そんな訳でもう少し、その表情を目にしたいのだと、僅かな下心が己にあることを否めない。
しかしながら理由は明白であれ、それを正直に口にするのは今のノーマンにはとてもじゃないが憚られた。
そんな思いを知ってか知らずか、先に口を開いたのはエマだった。
「…美味しいを共有したいの」
俯いていたレイが静かにこちらへ視線を向けたようにノーマンは感じた。
「りんごは食べたい…食べたい、けど。それを誰かと一緒に食べて、美味しいねって言い合った思い出が私はもっと欲しい。」
美味しいの共有か…
それは盲点だった。が、その言葉や切実とも取れる表情に、ノーマンはエマの行動にようやく合点がいった。
──僕たちは最年長。それぞれの里親に連れられ、ハウスを出る日もそう遠い未来ではないだろう。
エマはハウスでの思い出を作りたいのだ。
(…本当に、大好きなんだなぁ)
このハウスが、家族みんなが。エマにとっては何より大切なのだ。
共に在れる時間が少ないというのなら、その限られた中でひとつでも多くの思い出を。
それこそ、いつもと少しだけ違う日常が今この時であるなら尚更だ。
そういうことなら、
「エマ。余りのりんごを賭けて、今から向こうでじゃんけん大会が始まるらしい」
「ほんと!?」
沈黙を割ったレイの呼びかけに、エマは大いに反応を見せた。
「行ってくるね!」
「さて、俺も少し席外す」
人が集まった食堂端へ駆けて行ったエマを見送ったあと、そう言ってレイも立ち上がった。向かった先はコニーの元だ。
…理由は分からないけれど、レイの中でも何か答えを得たらしい。
ひと言、ふた言話しただけのようで、すぐこちらに戻ってきた。
「何を話してきたの?」
「りんご美味いかって聞いてきた。…すごく美味しいって」
「それでいいの?」
「あぁ、それでいい。」
「…そっか」
深追いは野暮だろう。そう判断して、ノーマンは質問を切り上げることにした。
しばらくして食堂端の人混みから、「わぁッ!」っと歓声が上がったので、思わずレイと顔を見合わせた。
どうやら向こうでじゃんけんの勝敗がついたようだ。
「お、勝ってるじゃんエマ。大人気なくね?」
揶揄うようにこちらへ話題を促すレイに「そうだねぇ」と返事を一つ返しておく。
りんごゲット〜!と声高らかにこちらに戻ってくる彼女は、達成感に溢れた笑みを浮かべていた。
本当は、こちらがその表情を引き出したかったのだけれど、
なるほど、これも悪くないか。
手元のりんごをひと口齧ってみる。
しゃくり、と音を立てて、舌にジワリとした甘さが広がる。
またそれと同時に甘さとは違った、なんとも言えない別の心地よさを感じながら、ノーマンはそれらを飲み込んだ。
「ノーマン美味しい?」
「うん、すごく美味しいよ」